シネマの手帖
2020-07-03T23:51:10+09:00
chuoeiken
映画のReview
Excite Blog
ジョン・ウィック
http://chuoeiken.exblog.jp/30126971/
2020-07-03T23:14:00+09:00
2020-07-03T23:51:10+09:00
2020-07-03T23:51:10+09:00
chuoeiken
アクション
前回の記事からだいぶ日が空いたけど、その間にAmazonプライムビデオというとても便利なサービスが始まって、その文明の発達にあやかった初めての映画鑑賞です。
『ジョン・ウィック』
他にもいろいろ見たいなと思ってた映画はあるけど、なぜこれを選んだか。ざっくばらんに言うと選べる中で一番面白そうだったから。元映画研究会の名折れと言われても仕方のない消極ぶりですが。
入り口はそんな感じでしたが、面白かったです。
とにかく、キアヌ・リーブス演じるジョン・ウィックって殺し屋がメチャクチャ強くて、引退したあとも伝説的扱いなんですね。
裏社会に精通していて、ジョンよりも数倍人殺してそうなヤバそうな奴とかもジョンを見ただけでどうぞどうぞお噂はかねがねと平身低頭になっちゃう、そこはなんとも快感なポイントです。顔パスって憧れるじゃないですか。あの感覚を味わえるわけです。
ただ、これはある意味ネタバレになっちゃうのかな…ジョン、意外とボコボコとヤラれます。
導入のところで、お前あのジョンを怒らせたのか?あのジョンを?それがどんな意味かわかるか?とひたすらジョンのヤバい伝説でめちゃくちゃ煽って、僕も生唾飲み込む音聞こえるくらい見入って、ほんとツカミとしてバッチリだったので、なんつうかそこはもっと期待に応えて無敵で俺TUEEEEE感を味わわせてくれてもよかった気がするんですが、ジョン結構ピンチに陥ります。
とはいえアクションは爽快で、悪い奴らをギッタンギッタンにするカタルシスは十分得られるので、オススメしたいです。ただ、ハチ公の映画とかで泣いちゃうイヌ大好きな方はちょっと気をつけたほうがいいかもです。
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http://chuoeiken.exblog.jp/18709351/
2012-07-23T23:38:23+09:00
2012-07-23T23:38:21+09:00
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chuoeiken
未分類
申し遅れました。私、鈴木と申します。数年前までこのブログで記事を書いてました。そもそもここは、私が在籍していた大学の映画サークルが管理している映画感想ブログであって、私の所有物ではありません。
なぜ今ごろになって我が物顔でここに記事を書いているのかというと──なんのことはなく、ただの気まぐれです。ほんとに。ガチで。それ以上でもそれ以下でもありません。
それにしてもよく、何年も更新されてなくて死んでるホームページっていっぱいあるじゃないですか。ああいうの見ると、いつも不思議になるんですよね。そのページを持ってる人は、その存在を忘れちゃってるのかな?って。なんかちょっとくらい、何でもいいから書こうとか思わないのかなって。最近何食べた最近こんなゲームした──それだけで立派な記事になるっていうのに。記事も書けないほど忙しいって、よっぽどですよ。ネット環境のない海外や無人島に異動したとか冷凍睡眠してるとかでもない限り、記事書くくらいの暇はあるでしょうよ。
ドモドモ、今数十名の「お前が言うな」をいただきました。そうなんですよ。今このページもそんな状況に近かったんですよ。この散々埃が積もり積もったこのページに今、更新という新鮮な空気を注いだ時いったい何が起こるのか。そう、なぜかいまだにこのページのパスワードを覚えていた私にこそ、それを試す権利があったというわけです。
私もこのブログを忘れてたというわけじゃないんです。記事を書けないほど忙しかったわけでもないです。ただ、ざっくばらんに言って、今の私に記事を書く意味がこれっぽちもない。それだけなんです。
まず、私はすでに大学生ではなくなった。社会人5年生です。そんな奴がいきなりここで映画の感想なんて書いたらどうなります。具体的にどうなるか挙げるのは面倒だけど、一言ジャマでしょう。
そして驚くことに、私は結婚しました。まあ、聞く人が聞いたら驚くと思いますけど、ほとんどの方には、同僚の朝ごはんくらいどうでもいい内容ですよね、会話にする人います?お前今朝何食ってきたのって。いたらごめんなさいね。
結婚すると、人は変わります。少なくとも私はそうでした。私も大学時代は年に100本を超す映画を見てましたが、今は見る影もなく、年に2~3本も映画館に行けば多いほうです。いや、それは僕は全く悪いことだと思ってません。うちの奥さんはあまり映画を見る人じゃなくて──嫌いではないみたいですが──自然と映画にあまり触れない生活になじんでいます。
最後に記事を書いてから6年余り…人は多かれ少なかれ変化せずには過ごせないことを、この時の止まったブログの中で強く実感します。
だが私も、映画への情熱が冷めたわけではありません。今でも、テレビで映画がうつっていると自然とそちらに目が行ってしまいます。そんな私が、本当に久々に楽しみな映画がもうじき公開されそうなのです。それは『アベンジャーズ』。
このブログも私ぐらいしか見る人もいないでしょう。なので久々に映画の感想を書いてみようかなと思うのです。]]>
昼顔
http://chuoeiken.exblog.jp/8000548/
2008-01-31T14:49:34+09:00
2008-01-31T14:49:34+09:00
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chuoeiken
ヒューマンドラマ
婉曲的な官能表現に彩られ、潔く且つやわらかい場面転換で紡がれるこの作品には、悪意にも似た魅力が満ちている。
というのは、作中でセヴリーヌが見る夢――もうコメディの域かというほど物語の筋から乖離したシチュエーションやボキャブラリーで彼女が嗜虐されるのだが、カメラが夢へとシフトする方法が、通常の場面転換と全く変わらないのだ。「アレ、これは夢だよね?」と確信する頃には現実へとカメラが向いている。そのトリックは序盤からエンド・シーンにまで貫かれる。この手法が持つ演出力というのは甚大だ。
物語というのは受け取り手に対して親切である必要があるが、過剰な親切は受け取り手の解釈の余地をなくしてしまったり、話の筋を堕落させたりする。現実世界と夢想世界の境界線の不在は、シンプルに観ればもちろん不親切なもの。だが作り手がそれを親切な形にまで昇華して、「親切な不親切」を作り出したとき、受け取り手は自分の個性にあかせた解釈を許される。
人間がセックスに対して抱く憧憬をシチュエーション・コメディに擬態させるかのように描ききった傑作。虚脱するしかない。一年ぐらいしたらもう一回観たい。それを一生続けたい、という映画。]]>
屋根裏の散歩者
http://chuoeiken.exblog.jp/7995761/
2008-01-30T02:32:12+09:00
2008-01-30T02:32:12+09:00
2008-01-30T02:32:12+09:00
chuoeiken
ミステリー
六平直政・寺田ミノルといった実相寺作品の常連が登場、また明智小五郎を演じるのは嶋田久作である。嶋田版明智はやっぱりスマートさがなく、どことなく粘着質なイメージ。
作品自体はほぼピンク映画といっていいほどベッドシーンばかりである。ウィキで調べたところ、昔実相寺はアダルトビデオの監督をやったことがあるらしい。ウルトラマンからピンク映画まで幅広く撮れるのが実相寺の魅力でもある。
実相寺演出といえば昭和臭のする画面をまず思い浮かべていたのだが、この作品を見ると照明に力を入れていることが改めてわかる。光と闇の織り成す世界こそ、晩年の実相寺作品の真骨頂である。
写真は淡い光の中、屋根裏から覗かれているとは知らずにバイオリンをひいているシーン]]>
大日本人
http://chuoeiken.exblog.jp/7050780/
2007-07-03T19:34:00+09:00
2007-07-03T19:34:39+09:00
2007-07-03T19:34:14+09:00
chuoeiken
バカ映画
僕は松本人志のセンスや、才覚は高く評価しています。「松本だから」というイメージもありますが、彼は「スベリ知らず」と自称し、周囲もそれを認めています。正確に言うと、彼のギャグは全くスベらない訳ではない。ただ、彼はスベッたこと自体を笑いに変えることが出来る。それは、実はとても異常なことだと思います。
ただ、それが易々と映画に活かせるものではない、と思っていたのですが……
僕たちは、結構ダイレクトに、松本人志に触れてきた世代だと思います。それゆえに、彼か作る「笑い」や、彼が扱う板尾創路なんかには幾度と無く触れてきた訳で、それらの要素がストーリーの中に盛り込まれていると、そこだけが不自然に浮き上がってしまうわけです。
コメディをやるな、とは言いません。ただ「映画」としてやるのなら、身内の芸人は使うべきではないし、自ら主演することも無かったと思うのです。
しかしまあ、コントの衣装姿でもなく、スーツ姿でもない松本が立ち、歩き、スクリーンに在るというのは、結構素晴らしい情感を生むものだと思いました。もし、全くコメディックでない作品を生み出したら、また彼の笑いが映画に馴染んだら、その作品は傑作となり、それと同時に松本人志の才能を疑う人間は決定的な愚者の烙印を押されるのでありましょう。
その日が来るかどうかは分かりませんが、ぼくは、まことに個人的にではありますが、彼の映画がそのような完成を得るのを心待ちにしています。
某三年生]]>
フランドル
http://chuoeiken.exblog.jp/6873758/
2007-05-19T09:41:00+09:00
2007-05-19T09:43:51+09:00
2007-05-19T09:41:52+09:00
chuoeiken
未分類
炸裂する静寂。
極端に違う二つの世界を平行して描く手法に、恍惚を誘う違和感を覚えさせられる。フランドル地方のハッキリとした四季・自然、その移り変わりの中で少女・バルブの極めて脆い感情と、無為なセックスが描かれる。一方で、彼女に想いを抱くデメステルはフランドルを離れ、荒涼とした中東で、兵士として戦闘に明け暮れる。彼が麻痺を始め、罪を犯していく様が、少しずつ漠然と織り上げられていく。
叫び声と爆音、銃声でこちらの耳に訴えてくる大音量とは裏腹に、観る側は強い静寂に包まれる。首筋が撫で上げられるような美しいカットが連続する中、感動は一向に波打とうとしない。ヌルリとエンド・クレジットが始まった瞬間、僕は自分の感動の薄さに少し驚いた。
無論、強力な感動が無かったから駄作だ、とは言えない。普通人間が感動とは表現しない、動揺の表層といえば良いのか、感動の浅い部分にある薄膜の中で、呼吸を制限されるような映画だった。固定された自然の中に人物が入り込む度、人間の表情や無機物を偏執的に捉えられる度、そんな思いを認知させられた。
ブリュノ・デュモン監督は、芸術を作っているつもりしかない、と語る。そして、いっそテロルでもって表現したいとも語っている。人を楽しませる「ためだけ」の作品は芸術ではない、また人を苦しめるものも芸術たり得るのだと痛感した。
渋谷で久し振りに迷った 某三年生]]>
恋愛睡眠のすすめ
http://chuoeiken.exblog.jp/6825396/
2007-05-07T12:19:00+09:00
2007-05-07T14:53:54+09:00
2007-05-07T12:09:11+09:00
chuoeiken
未分類
ミシェル・ゴンドリーの作品は、ビョークのビデオくらいでしか観た事がありませんでした(エターナル・サンシャインも観てません)。
つまり全く予想を利かせられずに観たのですが……
この作品は……
結構おもしろいです。
ダメ男・ステファンが女の子に恋をすると、元々強かった夢への逃避が強まり、現実との境をなくしていくというお話。まあ標準的な現代フランス映画って言っちゃえばそれまでなんですけど。完成度の高いモデルアニメや、夢世界の映像表現はなかなか見応えがありますし、お国柄というか何というのか、笑える下ネタも結構飛びます。
観終わった後、コミュニケーション能力というものをちょっと考え直したくなりました。
人間と向き合わないと理解し合うことは出来ない、けれど、想像力が無ければ向き合っても通じ合うことは出来ない。想像力を働かせすぎれば、主人公・ステファンのように夢想の世界を築いて、それに囚われてしまう。けれど人間と向き合う作業を完璧に行なっても、感じ取る作業を怠れば、表面的な接触にしかならない。刺激も精神の充足も無い関係しか築けない。
「狂ったこの世で狂人となる者こそ正常だ」と、シェイクスピアだかが言ってましたが、傍から見て「イカレてる」「ズレてる」と思うヤツこそ、評価すべきなのです。悩んだり苦しんだりしないと狂えないのです。苦悩したことがない人間となんて、交流したくないし友達になんてなりたくない。人間のコミュニケーションというのは難しいです。
僕が気にしすぎてるだけかもしれないですけど。そうだったら笑えますね(僕は笑えません)。
ちなみにステファンはズレたヤツですが、友達にはなりたくないです。そういう場合もあります。
某三年生]]>
undo
http://chuoeiken.exblog.jp/5998903/
2006-11-07T10:24:00+09:00
2006-11-07T10:25:18+09:00
2006-11-07T10:24:07+09:00
chuoeiken
ヒューマンドラマ
まあぼくが岩井俊二好きというのは、内輪では結構有名な話である。「リリイ・シュシュのすべて」だとか「スワロウテイル」も好きだが、あの人の徹底した美的(なだけの)映像の追求というのは、ストーリーを固めた作品よりも短編、特に「あまり出来事が起こらない話」でこそ活きるところがあるように見える。その点で「PiCniC」もすごく好きであり、あちらの方が完成度が高いとは思うが、ここで「undo」を挙げるのは単に山口智子が好きというだけの理由。
山口演じる「強迫性緊縛症候群」、つまり何でもかんでも(物理的に)縛り付けてしまう病にかかった妻と、彼女と結びついている実感が持てない夫。その生活の中で心を縛り解くという事と、体を縛り解くという事の倒錯が始まる、というストーリー。ちょっと勝手な解釈が混ざってますけど。
愛の虚しさとか他者とのコミュニケーションを描いたものに見えるのだけれど、山口智子を縄で修飾した映画、という側面が強く見られてしょうがない。様々なトレンディ・ドラマに於いて現代社会を気丈に生きる女性を演じていたのに、こんな変態じみたアヴァンギャルドな映画で白痴のような役柄を表現し切っている。
夫をトヨエツが演じ、精神科医を田口トモロヲが演じるという豪華キャストであるが、中盤辺りからもう山口しか見えない。むしろ心理描写においては夫の側が重視されており、妻の存在が付随しているとも見られるが、ああいう技法で表現されてしまうと彼女を見てしまう。
多分この映画を見た感想というのは、自分が持つ恋愛の価値観が顕れたものになると思います。ぼくは二人の人間がいて愛情でもって『結びつく』なんていう行為は結局、「満足」と「拘束」というキーワードだけで説明がつくと考えています。
錯覚だ錯覚、愛情なんていうものは。錯覚してなければ、時間的・物理的拘束を受けて満足した気分になんてならないだろ、普通!でもその錯覚が無ければ人間は生きていけない。
だから山口の劇中での台詞は胸を打つのです。「ちゃんと縛ってよ」。
あるO]]>
ハード・キャンディー
http://chuoeiken.exblog.jp/5630851/
2006-09-06T12:39:20+09:00
2006-09-06T12:39:20+09:00
2006-09-06T12:39:20+09:00
chuoeiken
サスペンス
或る所にオオカミがいました。オオカミは小さい女の子が大好きでした。初経を迎える頃の幼さの残る少女がオオカミの好みでした。
情報技術の発達は著しく、オオカミの家にも一台のパソコンがありました。オオカミはチャットを通じて女の子と会話をするのが好きでした。時にはネット上で知り合った女の子と直接会うこともありました。
ある日、オオカミは外へ出かけました。コーヒーショップにです。オオカミが扉を開けると、カウンターの傍にいた、真っ赤なフードを被った女の子がこちらを振り返って、優しく微笑みました。
オオカミは少女に気づかれないように、心の中でニヤリと笑いました。
期待すると、裏切られた時のダメージが大きい。求めていた面白さはなかった。茶番という言葉がよく似合う作品。ま、低予算・短期間の制作みたいなので、無理を言ったら駄目なのですね。アイディア勝負といった感じですかね。サド・マゾといった性的な言葉に引かれてふらり行ったけど、そんなのは真っ赤な嘘。もっと官能的かと思ってた。
中年のおっさんとちびっ子少女のキンタマ切るか切られるかの駆け引き、そして死闘。はぁー。この女の子がイラッとするんですね。大竹しのぶ似で、狡猾な感じが観ている人に不快感を与えかねない。説教くさい話し方で観ていて嫌な感じだった。稀にみる説教映画。
ホントに観ていて辛かった。時々スクリーンに映し出される、ミュージック・クッリプのような画が動的で、全体にスパイスを加える感じではあったが、観辛かった。全体としてのバランスが悪かったように思われた。リズムが。んー。僕が合わなかっただけかも。
そんなことより中盤、僕は劇場で笑いを堪えた。狂気と笑いは紙一重というか、それが滅茶苦茶怖ろしい事にも関わらず、描き方一つで笑いを生むことがある。キンタマを切られるシーンで男が、『キンタマは切らないで、何でもするから』と命(キンタマ?)乞いをするが、駄目と言われてガキのようにわーわー喚き散らして泣きじゃくる。男の子なら、これは如何に切ないことなのか分かると思う。ただ、あの泣きじゃくり方はない。一見の価値があるかも。だって客で笑ってた人もいたし。で、キンタマ切られた、ちくしょー、女ぶっ殺してやる、手の縄ほどいて、チンコの傷口は・・・あっ!チンコついてる!ラッキー!儲け儲け!でも、あの女、憎い、ちくしょー、女ぶっ殺してやる!! 何じゃこりゃて思うわけだわ。
赤ずきんは意味ないとして、この映画のテーマはペドフィリア、つまり子供に対する性的嗜好が取り上げられている。このような傾向を持つが故に罪を犯してしまう人がいるというのは事実である。最近のニュースでも、ちっちゃい子を殺す事件などが多く見受けられるような気もする。テーマとしては、子供を持つ親をはじめ、多くの人が関心を持てるようなものなのだろう。
こういった事件では、被害にあった人たちは生きながらえたとしても傷を負って生きていかなければならない。被害者の家族も同じように。その一方で刑期を終えても、また犯罪を繰り返す輩もいる。家族にまで重荷を背負わせて。米国ではそういった強姦罪など前科者の住所をホームページ上に載せて、子供を持つ親はビクビクしながら生活を送っている。この映画における少女は、行き場のない怒りが具現化したもののように思えた。
なんてね。
コーヒーショップの店員
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17才
http://chuoeiken.exblog.jp/5531467/
2006-08-22T00:51:00+09:00
2006-11-07T10:27:55+09:00
2006-08-22T00:51:26+09:00
chuoeiken
青春映画
以前観た映画を観返してみると、随分感じるものが違うことに気付く。ぼくが影響されやすいたちだということもあるのだろうが、それにしたって面白いものである。
レイトショー限定上映であったこの作品は、自主制作の雰囲気がありありと、というかその雰囲気しか感じ取れずチープで、洗練されていない。しかし主演級の若手女優たちと、随所に現れる有名脇役俳優陣(監督である木下ほうかや、田中要次、徳井優など)。最近でも聞くような名前であれば、松田龍平や山崎裕太などもキャスティングされている。そんな良質な演じ手たちが粗い映像をまとめ上げていく要因になっている。
画面の暗さのせいで顔の判別がしづらいとか、台詞が聞き取りづらいというようなアラもあり没頭はし難い。スナップの利いたシュールギャグを織り込みはすれど、話そのものはよくありがちな、ハイティーンの日常を映画的に綴っただけのもの。
しかし趣味が悪いぼくは、その安っぽさやBGMのピアノや、「学校の屋上で、女子高生が二人タバコを吸う」といった至極分かりやすいシチュエイションにだまされて、この映画が大好きになってしまったのである。だから散々批判的に書いてはみたものの、全体の粗さも味だと思っているし実際は、だまされただなんて思っていない。
きっとどんなに批評眼を養っても、この映画を72分ばっちり観て、七尾旅人のエンディング・テーマを聴いたら、この映画を肯定するのだろうと思う。もしも年老いた時にこの映画を嫌いになっていたら、それは多分17才だった事を忘れている、ということだ。
初投稿がこれでいいのか、と思う あるO]]>
イン・トゥ・ザ・サン
http://chuoeiken.exblog.jp/4806588/
2006-05-26T14:56:00+09:00
2006-05-26T14:57:06+09:00
2006-05-26T14:56:21+09:00
chuoeiken
アクション
予告編観たときからワクワクしていた私はとてもがっかりした。
ひどい。
なにがって、セガールの日本語が。
やっぱりセガールは大塚明夫先生でなければいけませんなあ。
あ、「タタッコロシテヤルー!!!!!!!!!」だけはカッコよかったっすよ。
大沢たかおなんで出たのかなあ、とか、
伊武雅刀は素敵すぎるなあ、とか、
豊原功補はなんでアリコのCMに出ちゃったのかなあ、とか、
栗山千明あんだけ予告に出てたくせに、実際は出演シーンこんだけかよ、とか、
やっぱセガールだけが正義だな、とか考えてたらあっという間にエンディング。
エンドロールで私は耳を疑った。
セガール、歌ってる!!!
それも結構ブルージーなナンバーを。
愛する女と相棒を失った悲しみが、その声から溢れてる。
流石セガールだぜ。
この作品はエンディングのみに価値があるのではないかしらん。
内容は沈黙シリーズのがずっと面白いです。
まあセガール映画なんて、どれも中身一緒だけどね。
栗山千明スキーは予告にだまされないよう気をつけてください。
さばっち]]>
菊次郎の夏
http://chuoeiken.exblog.jp/4630004/
2006-05-11T00:07:00+09:00
2006-05-11T00:18:40+09:00
2006-05-11T00:07:54+09:00
chuoeiken
ヒューマンドラマ
「大人はな、子供のために、命かけなきゃな」
コメディー調の流れのなかにそんな台詞がいきなり飛び出してくる。
たけし映画の独特な青い世界に突拍子もなく鮮やかな色が映し出されるように。
この作品に限らず、北野武が映画で描くものってとてもシリアスだ。愛情や孤独を直視していると思います。
それをお笑いで隠しているようにも思えてしまいますけど。そうでもしないと照れくさくってしょうがねぇや!って鼻をすする「ビートたけし」が目に浮かんでしまうのは、僕だけでしょうか。
この作品はロードムービーなんですね。ヒッチハイクで子供のお母さんを探しにいく話。でも後半はグレート義太夫と井出らっきょをいじりまくっていた。そこはな~…う~、いらないよねぇ?いるのかな。
久石譲の「summer」はやはり、美しかったです。もうすぐ夏。誰かどっか行こうよん。(がさがさおがさわら)]]>
ナッシング
http://chuoeiken.exblog.jp/4567705/
2006-05-05T02:47:00+09:00
2006-05-14T23:45:17+09:00
2006-05-05T02:47:44+09:00
chuoeiken
未分類
これは制作者の意図が掴めません。そんな中で僕が思ったのは、この映画は厚生労働省推せん映画にするといいということでした。そう、この映画は、働く意志がない人や引きこもりの人に観てもらうといいです。
主人公の二人は極端なくらい世間となじめません。彼らは何十年も家に引きこもり…まあ彼らの家がオフィスなので、電話で顧客とやり取りすれば事足りるのです。しかしそんな生活をしてていいはずがなく、程なく彼らに次々と不幸が訪れ、彼らは世界を消してしまいたくなります。
そのシーンまでで映画は大体30分くらいですが、その時点で僕はすでにこの映画を観ていられなくなりました。なぜなら、この主人公を見ていると自分を見ているようだったからです。ちょうど僕はこれを観た頃春休みで、なにをすることなく漫然と家で過ごしていました。引きこもっていたのです。このままじゃいけないと思っているさなかにこの映画を観て、うわぁ、俺ってはたから見るとこんななのかよ、こんなにいつもおどおどしているのかよ…となぜか極端に自己投影してしまいました。ここまで自分に似ているキャラクターを見たことがなかったのです。やがて映画の世界が消えると、心底安心してしまいました。彼らに共感してしまったのです。これはいよいよまずいと思いました。
5月病やなんやで無気力になっている皆さん。この映画を観ると、ああ何かしなきゃ!と行動する意志がわきます。今からでも生産的に行動しなければと思えます。かくいう僕も、この映画を観て明日から早起きして快活な生活を送るぞと奮起しました。翌日、僕は快活に昼過ぎに起きて快活に家で過ごしたのでありました。
目覚めはいつもいいとも!な鈴木]]>
V フォー・ヴェンデッタ
http://chuoeiken.exblog.jp/4543753/
2006-05-02T15:35:00+09:00
2006-05-12T00:21:53+09:00
2006-05-02T15:35:30+09:00
chuoeiken
未分類
この映画を観に行こうか迷っている方が多いと思います。なんとなく危険思想の映画って感じがするし、話が難しそうでアクションに期待できそうにないし、でもマトリックスの製作陣という宣伝文句も気になる。
しかし心配はございません。あなたは、Vというキャラクターさえ見ていればそれだけでこの映画の90%を楽しむことができるのです。もっと言ってしまえば、それ以外に多くを期待してはいけません。
そんな殺生な、と思われる方、大丈夫です。この映画はVのすべてで成っているので、Vさえ見ていればそれだけで十分なのです。
この映画の最大の発明は、あのヒューゴ・エージェントスミス・ウィービングに仮面の男Vをキャスティングしたというアイディアでしょう。あの誰もが注目したくなるいびつな眼光と危険なおでこを仮面の下に隠し通すという無謀!しかしそれも仕方ありません。あんな非現実的な面構えをさらしては、誰も彼のことをVとは呼んでくれないでしょう。つまり、共演のナタリー・ポートマンに「スミス」もしくは「エルロンド」と呼ばれるたびに、ジルにハマタ呼ばわりされる浜ちゃんのごとく「いやVやけど」といちいち突っ込みを入れていては映画が進まないのです。かくしてヒューゴ・ウィービングには声しか残らないことになりましたが…それで十分ではないですか。
さすがマトリックスの製作陣。観客の心をつかんでいます。そう、僕はあのスミスの声が気になっていたのです。スミス節とも呼ぶべき誰にも真似できない独特のアクセント。とろけるチーズのように頭にこびりつくネットリした甘美な低音。圧倒的な存在感を誇るあの声さえあればほかに何もいらないのです。惚れ惚れするような鮮やかなアクションで魅せるVの中の人が本当にあのおでこの人かどうかなどどうでもいいのです。
期待を裏切ることなく、本作でも彼の声は圧倒的な存在感を示しています。マスクをしているとはとても思えないほどよく通る声で畳み掛けるように説教をされたら、独裁者だって耳を傾けてしまいます。それにしても、ヒューゴ・ウィービングには仮面の男が適役という最強の法則を見つけてしまったからには、もう彼には仮面の男役しかオファーが回ってこないことでしょう。これでは、いつか中身がコージー冨田に変わっても誰も気づかないでしょう…否!あの唯一無二の彼のしゃべりは、もはや専売特許、他の追随を許さない。よって、コロッケだろうがクリカンだろうが彼のモノマネだけは不可能なのです!
それにしても、デミ・ムーアが代わってもよかったんじゃないかと思うくらい存在感のなかったナタリー・ポートマンは損な役回りでした。それも仕方ない。何かをしゃべるだけで絵になってしまうニュータイプスミス(しかも増殖機能継承)が共演者じゃ誰が演じても存在を食われてしまいます。仮面つけたままフレンチトースト作っても絵になってしまうんだから(ここだけの話、このシーンが一番の見どころ)、誰もかないっこありません。
とにかく、この映画はVの存在が危険すぎます。なぜなら、とても魅力的だからです。これでは、彼に感化されても仕方ありません。彼に影響されて、国会議事堂を爆破するような輩が現れないことを祈るばかりです。この映画で本当に危険なのは、政府ではなくてVなのです。僕は、この映画のラストのお祭り騒ぎをまったく喜べませんでした。それどころか、終末感を覚えました。思うに、Vのごとき圧倒的なカリスマが善であれ悪であれ支配権を握ったとき、世界の終わりが来るのではないでしょうか…
皆さん、Vに騙されてはなりません!「ヤケドしたからはずかしいワ」とごまかしてマスクを断固はずしませんが、その素顔はしょぼい親父なのです!どうせ映画のことだしぃ~と言ってるあなた、油断はなりません!映画館から出ても、Vはあなたの心の中に生き続けているのです。なぜなら、彼はエージェントスミスに他ならないからです。それが証拠に、町を埋め尽くすVの仮面の波を見たとき確かにスミスの声が聞こえたからです…
「みんな私になる」
鈴木]]>
ゆきゆきて、神軍
http://chuoeiken.exblog.jp/4494076/
2006-04-27T00:06:55+09:00
2006-04-27T00:06:55+09:00
2006-04-27T00:06:55+09:00
chuoeiken
ドキュメンタリー
物凄いタイトル。映画と呼べるかどうか分からないのですが、衝撃的だったので紹介。
内容は、奥崎謙三氏に関するドキュメンタリー。奥崎謙三氏は天皇パチンコ事件、天皇ポルノビラ事件などの過激な反天皇活動で知られている方で、本作品は戦時中の部下射殺事件の真相を探るために、奥崎氏があの手この手で奮闘する話。戦争が残した負の産物を鋭く描き出す社会派ドキュメンタリー。
ではありますが、なかなか強引なドキュメンタリーですね。こんなものが大学生協に出回っていたというのにビックリしますね。ホントに。序盤のタイヤを鳴らしながら疾走する街宣車。いきなり殴りかかり、馬乗りの体勢で元軍曹をボコボコにする奥崎氏。もう、やりたい放題といった感じです。
奥崎氏は揉め事を起こした後に、なぜか自分から警察に連絡します。それが彼なりの責任の取り方なのだそうです。そのくせ、殺人未遂事件を犯した後は逃亡するといった妙な行動をとります。そういった点は解せないですね。熱い信念があるなら、それに従えよ!彼は自分の価値観を基軸にドンドン突き進んで行きます。その彼の言動は筋が通っていないように思えますが、彼を突き動かすエネルギーそれ自体は否定することはできないし、そのエネルギーに私は驚きました。
まー、あまり関係ないことかも知れませんが、この作品を観ていて、ある人が「戦争の事なんか、戦争を知らない(経験したことがない)から分からない。」と言うのを聞いたことを思い出しました。それは否めないとは思いますが、それでは、奥崎氏が戦時中の悲惨さをいくら明らかにして、後世に示したとしても、その反省が活かされていないような気がします。奥崎氏の活動が無駄だったのだろうか。それとも戦争を知らない世代の想像力が欠如しているのだろうか・・・。
そんなことを考えるうちに眠くなってきて、朝起きて、日常が始まり、昨日の事なんて忘れ・・・人間て上手に出来てますね。
そりゃ、戦争も終わらないやっ!
ロドリゲス
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